2014年8月19日火曜日

失語症者、言語聴覚士になる―ことばを失った人は何を求めているのか

失語症になってしまった方に短期間の治療を試みただけで、「これ以上回復する見込みはありません」と訓練をうち切るのは、大きな間違いを犯していることになる。大学生の時に脳外傷を負った著者の、新生活を模索した20年の道のり。


失語症は本人の言語機能のみならず、身体的・心理的・社会的な多くの問題を抱えている。大学生の時に脳外傷によって失語症を体験した著者が、言語聴覚士となるまでの道のりを、失語症の人たちの代弁の意味を込めて書き綴る。

大学在学中、突然の交通事故で失語症となりどん底まで落ち込んでいく様子が赤裸々に語られています。’できない、困る’事柄の範囲は広がっていました。「でもまったくまいにちおもしろくない。これじゃ、いきているかんじがしない。もうこんなオレはいやだ。」(『私の日記』から)
そこから’できる自分’に誇りを感じ始め、それを積み重ねることで起き上がっていき、ついに大学(教育学部)も卒業します。その後幾人もの運命的出会いを経て言語聴覚士となります。決して現状に甘んじず、より良いケアを目指して、病院を辞め独自に訪問ケアを始める勇気には敬意を表します。
でもこの本の最も素晴らしい点は、家族や医療者が好意でやっていることが、失語症者にこんな苦痛を与えているというのがわかる記載です。
失語症者がどう感じているのか知りたい方―医療従事者より家族にその思いは強いと思われます―に是非お薦めしたい1冊です。

総合病院、リハビリ専門の病院、セルフヘルプグループなど、いろいろな場でSTとして臨床に従事し、訪問ケアにたとりついた著者の、失語症になってからの体験がつづられています。STの様々な活躍の場を、また、言語障害の方が望むそれぞれ多様な形の言語治療やそれを通したQOL回復を知ることができるという点で、優れていると思います。
また、著者自身の、言語治療のクライアントとしての経験に基づいた、STのあるべき姿勢についての主張、症状が重度だったころの感情など、大変重みがあります。
読みやすく、STを目指す人にも、失語症患者の周囲の人にもお薦めです。

 本書は平澤さんが自らの失語症体験を通して、社会への失語症理解、病院外でのケアの必要性を訴えかけたものだ。

 失語症は、「聞く、話す、読む、書く、計算する」などに困難が生じる。そのため身体に障害がある患者と違って、本人が黙っている限り外見からは判断しにくく、痴呆症と間違えられてしまうという憂き目もみている。

平澤さん自身は、
「失語症とは、そんなに簡単に「治った」なんて言える障害ではありません。確かに、日常的コミュニケーション能力を獲得するところまでは回復しますが、発症から二、三年ではそのレベルにはなりません」
とおっしゃっている。つまり、言語治療はたった2,3ヶ月の外来治療だけでは完結せず、むしろ、日常生活の中で患者が積極的に言葉を使える環境を作っていくことが重要だということだ。

 しかし、言語障害を持つ患者は障害を隠すためになかなか世間と交わらず、塞ぎこむ傾向がある。だから本書では「失語症友の会」など患者が同じ障害を持つ人と出会える場の提供、地域での活動の必要性が何度も説かれている。
 
 失語症者には、言いたいことが頭には浮かぶのに言葉に出せないということがあるようで、「できないことづくめ」という自己嫌悪に陥る人が多いようだ。そこで、私たちが追い討ちをかけるように、「名前は?」「これはなんですか?」と無分別に聞く、訓練する、というのはおこがましいことではないか。「失語症は孤独病だ」と平澤さんはいう。患者を孤独にさせないために、周りの精神面での配慮が必要だ。

 最後に、失語症の理解で、ジャン=ドミニク・ボービー『潜水服は蝶の夢を見る』がお薦めだ。代替的なコミュニケーションを用いて自伝を書き上げる姿は障害を持つ人に勇気を与えるはずだ。患者、家族のみならず、医療関係者もぜひチェックしていただきたい。

主人が何を考えて、どんな気持ちで毎日リハビリしているのか。少しだけ、理解できたような気がします。


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